厄年になったので、川崎大師に厄除けの祈祷に行ってきた。
ものすごい混雑。
でも何とかすませて、お守りも買った。
関東以外の人は川崎大師って何、と思うかも知れない。
ローカルな話なのだが、関東で有名な厄除け厄落としの真言宗のお寺。
川崎大師は明治神宮と並んで、関東では初詣でも有名な場所になる。
だが正月三が日などはテレビに出るほど混雑するので、私はわざと時期をずらして行ったというわけだ。
それでもとんでもない混雑ぶりで、大変だった。
こんな大変な思いをして厄除けの祈祷をしてお守りまで買ったのだから、これでひとまず厄年を平安に過ごせるだろう、と思っていた。
だが、そうそう単純なものでもなさそうだ。
それはどういうことだろうか?
川崎大師の混雑ぶりは半端ない!できれば参拝、厄除けの日をずらすのがおすすめに
川崎大師はそういうわけで、混雑ぶりでも超有名だから、私は正月の初詣でさえ近場にもかかわらず選ばなかった。
元日などに川崎大師に初詣に行くと、平気で2,3時間の足止めを食う。
本堂の賽銭箱にまでたどり着くまで、根気と足の痛さを我慢しなくてはならない。
冗談抜きで立錐の余地がないくらいだ。
そんな朝の山手線さながらの混雑を以前経験したことがあった。
厄除けの祈祷だって大変な詰めかけようになる。
祈祷の受付が混雑する場合には、お護摩開始前に受け付け終了もザラ。
だからなるべく早めに(少なくとも1時間くらい前に)受付を済ませることになる。
たいていの人は初詣と一緒に厄除けもしてしまおう、ということになる。
正月三が日を過ぎれば仕事始めで、そうそう神社仏閣に行くチャンスもなくなるからだ。
でももうあの混雑ぶり、一度行ってうんざりしてしまった。
アラサーになって体力の心配もするようになったし、もう元日に有名どころ巡りは“卒業”だと感じた次第だ。笑
だからいささかフリーになった現在、日にちをずらして先頃ようやく参拝。
厄除けの“記念”くらいの意味でお守りも買った。
その方が凄く心穏やかに済ませられる。
慌ただしい元日や三が日を避けることが少しでもできるなら、絶対おすすめだ。
なお、川崎大師では厄年を満年齢で数える。
ところにより少し変わるらしいけれど、無事初穂料1万円をはたいて今年のスタートを遅ればせながら切ることとなった。
「厄除け」と「厄払い」の違いとは
なお、先にちょっと触れておくと、この記事の中では「厄除け」という言葉を主に使っている。
これは「厄除け」を行うのが基本“お寺”になるためだ。
祈祷によって体を清め、厄を「寄せ付けない」ようにする、という意味から来ているという。
逆に「厄払い」というとこれは神社。
体についた不浄なチリやアカを「払い」、身を清めた後で厄による邪気を「払う」祈祷を行う、というものだ。
でもこう解説してもぴんと来ない方も多いだろう。
実際伝えている私自身ちんぷんかんぷん。
ただ一つはっきり言えるのは、
「お寺は厄除け、神社は厄払い」
ということ。
川崎大師はお寺なので、厄除けという言葉を使っている。
それだけのハナシ、ことでご理解いただきたい。笑
厄年や厄除け、厄払いの効果は暗示だけ?
ところで厄年というのは女の場合、30代に2回も巡ってくることがよく言われる。
本厄である33、37歳、その前後に前厄、後厄とつながって、合計6年も10年間の内に厄年が待っている。
本当に女の30代というのは大変な10年なのだ。
生活や体調の変化がそれだけ激しい、変動の多い期間だとよく言われる。
それを考慮して生活習慣や食事、仕事などをことのほか気をつける必要がある。
そういう「昔ながらの知恵」だということがよく言われている。
でも、
「こういう年齢にさしかかったら厄払いで乗り切る」
というのは根本的な解決にはなっていないはずではないだろうか?
確かに気分的な違いはあったりするわけだから、そういう“暗示”めいた力にはなるかも知れない。
だが、スピリチュアル的な効果を信じない限り、それ以上の効果は考えられない、と断言するしかない。
実際、スピリチュアル的な効果もあまりないようだが。
厄年は微妙に役に立つ?暗示の効果を最大限活用
三が日を外して厄除けとはいえ、して川崎大師。
混雑ぶりは半端ない。
その混雑をかき分けて、やっとの思いでいただいてきた(というか、つかみ取った?)大きな御札やお守りを持つと、なんだか妙に安心感が出て来る。
確かに暗示の効果も有るのかも知れない。
けれど、それでもその暗示が良い方向に作用して、潜在的な意識に働きかけるようにして福を呼んでくれたりすれば嬉しいものになるわけだ。
もちろん厄年は普段の年とは逆に災難の年だから、そこまで期待は出来ないかも知れない。
でもそういう風に自分に暗示をかけて気持ちを前向きに切り替えるには良いチャンスにもなる。
暗示と言ってしまうとなんとなく川崎大師に申し訳ないので、気持ちの支え、ご利益などと呼ばせていただきたいが。笑
自分だけでなく、家族や周囲に対しても安心させるきっかけに
で、そのご利益の一つは何と言っても家族や周囲に対して、自分が厄払いをしたことで安心させることが出来る、ということ。
それこそ法事の読経と同じレベルなのかも知れないが、厄除けに行ってきたという事実で、特に祖父母の世代は安心してくれるはずだ。
何よりアラサー世代になっていまだ結婚相手は見つからない。
そういう私を一番心配して、神仏に祈っているのは祖父母のはずだし。
また、そういう家族と近いレベルで、親戚縁者とか知人には、私がそれなりに古い伝統文化に気を配るような女だと言うこともアピールできるのではあるまいか?
そしてまた、職場で
“自分は安全な女になったんだぞ”
とも同僚たちに確信を持たせることだってできるに違いない。笑
スピリチュアル効果が有るときはある?友人のヘンな話
ただ、それでも私自身、こういう厄年とか厄除け、自分なりに引っかかることがある。
私の友人で、結構スピリチュアルな話に明るい女性がいる。
自分でもそういう方面の「体験」があるとか言っていて、時にはちょっと危なげな感じ、それでいて全然宗教チックでない。
彼女自身、その筋で有名な人と懇意にしているらしく、その人の受け売りとして
「ちょっと頭のいい人だと、すぐ宗教に走っちゃう。自分で信じていなくてもその方が儲かるから」
のようなことを言ったりするのだ。
神仏の存在のありがたさ、大切さを知るチャンスに
それはさておき、その彼女の言うには、神仏はやっぱり大切にすべきもの。
この一点につきると語っている。
厄年を信じる、信じないは別として、やっぱりそういうスピリチュアル的な事象に対応するときには必ず最終的に神仏に頼ることになるという。
そして我々の死んだご先祖と一緒にいつも見守ってくださっているからだ、と言うわけだ。
よくよく考えて見れば、神社もお寺も、お叱りを承知であえて言いすぎを勘弁していただくと、現実の役には何にも立っていない。
広い敷地を占有する、ただの人気の無い大きな建物に過ぎない。
でもそれが古い時代から連綿と維持しているのは何のためだろうか?
そこには必ず人々の神仏を尊ぶ心が籠(こ)められているからに他ならない。
別に宗教をことさらに信じてほしいとお願いするわけではないけれど、そういう神仏を大切にすること。
厄年の厄除けなどは、そのような気持ちを呼び覚ます良いきっかけになるだろう、というのが彼女のコメントだった。
厄年に祈祷を済ませても安心しないこと
結論になるけれど、混雑や喧噪をおして、こういう川崎大師や厄除けで有名な神社・お寺に行きたくなるのは確かに人情だ。
災難は誰だって避けたい。
その願いは誰でも強く持っているからだ。
だがそれで安心してしまうことが一番危険になる。
あくまでもそういうわけで、厄払いは神仏と接する機会のようなもの。
言い換えると、厄年本来の意味をくつがえすことは出来ないのだ。
毎日の生活や仕事、ものの考え方などで気をつけるべき時期。
迷信であっても大まかに30代の女性の健康や生活を見れば、確かに意味を持つ。
だから厄除けしたからといって、安心し切ってしまえばそれこそ災難に遭うことも出て来るだろう。
よく言われているのは、あんまり積極的に行動を起こすべきではない年だということ。
軽はずみに行動をしてしまうと、大きな代償が返ってくる年齢とも言えるのだ。
だからそんなことをしないよう、御札という“注意書き”がある、と考えればよいのではないだろうか?
必ずよい方向に物事を考えるきっかけにも
だが、そういう年はむしろ喜ばしいという考えもあるべきなようだ。
何かというと、それは先のスピリチュアル的な物事に明るい彼女の話として、いつでも物事を良い方向に考えるようにする努力が大切だということを知る、と言うことだ。
暗示も考えようで、悪い方向にばかり物事をとらえてしまうとなかなか良い事は巡ってこない。
そういう自身のものの考え方、とらえ方を鍛えるチャンスになると言う意味では、確かに大きな意味を持つのかも知れない。
幸せや不幸を招くのも自分次第。
そういう気持ちで新年からお過ごしいただきたい。
長い文章、最後までご覧いただき大変ありがとうございました。
(一ノ瀬絵美)