「お墓で転ぶと悪いことが起こる」みたいな話、聞いた方もいるかもしれない。
でもふつう、スピリチュアル的に、マジに考える必要はない、みたいにみんなあしらっているし、よく「そんなの迷信。考えすぎないことだよ」と言う人もいる。
けれど、実のところスピリチュアル的に考えてみると、お墓で転ぶのが単に迷信と片付けてしまうことができないみたいだ。
だからといって、お墓で転ぶとか怪我をするなどしたらたたりがあったり、罰が当たったりするということではない。
でも、スピリチュアルというポイントを考えると、単に迷信という話を超えて、ちょっと深いものがありそうだ。
お墓で転ぶのは結局迷信。それ以外の何物でもないけれど…
で、スピリチュアル的な見方、考え方をする前に、お墓で転ぶことは本当に迷信なのか、と言えば、やっぱり迷信でしかない。
断言できないけれど、少なくともネットを検索すれば、特に小さい子供たちなどいくらでもお墓で転ぶことがあったりしている。
だからまず、この点だけはハッキリ言っておいて良いと思うのだ。
思い込んでしまうから「何かあるかも」となる?
ところが、スピリチュアル的な要素を考えてみれば、あながち私たち人間の心理というものがそこにずいぶん影をさして来るかもしれない。
つまり、お墓で転ぶという、ちょっと日常ではあり得ない失敗。
お墓という特殊な場所でのそういうミス。
そしてお墓というのは、死んだ人と深く関わっている場所。
それを私たちは、心の弱さで
「これってもしかして、何か悪いことが起こる、その前触れじゃないだろうか?」
みたいに、ネガティブにとらえることはないだろうか。
いや、絶対にある。
とりわけ気の弱い人だったらなおさらだろう。
これがスピリチュアル的な視点から考えていくと、結局そういう「何かあるかも」見たいな疑心暗鬼から不安や心配をするあまり、いろいろな物事にマイナスな影響を与えてくるかもしれない。
こう考えれば、お墓で転ぶこととスピリチュアル的な何かの影響がある事とは、間接的にだけれど結びついているのではないだろうか?
一番の解決策は断固「迷信だ!」とすること
気の弱い人ほど、そして人一倍心霊とかスピリチュアルに興味のある人ほどこういうことで迷いやすいかもしれない。
たとえば私の仲間で、女子会などでその手のハナシになると真っ先にスピーチを始めたがる女がいたりする。
火の気のないところに煙を立てるというか、日常のたわいもないようなこととスピリチュアルをすぐに結びつけようとするので、他の友人たちはみんなヘキエキすることだってある。
でもよく考えれば、こういうタイプの人の姿勢って、一番迷信に惑わされやすいのではないだろうか?
そして、迷信なのに、何もないのに、結局自分の心を振り回されてしまう。
そして挙げ句の果てに、本当の災難や不幸を呼んできてしまう、みたいなことになるのではないだろうか?
だから一番の解決策は、お墓で転ぶなどということにあまりこだわりすぎないこと。
頭っから
「これは迷信。何にもありゃしないんだ!」
とすること。
こういう断固とした態度でいるべきにちがいない。
私は線香でやけどした
ちなみに私だけれど、私はお墓で転ぶような目に遭ったことはない。
けれど一度だけ、お墓参りの時にお線香を上げようとしたところ、やけどしたことがあった。
火のついたお線香の束を左手で持っていたとき、突風にあおられてお線香の頭の灰が手の甲にぼとっと落ちてしまったのだ。
イヤその熱いこと。
私が高校生の時だったけれど、その時のやけどの跡、悲しい事に今でもうっすらあったりする。
でもそれっきり。
それが元で何か悪いことが起こったなんてことなどない。
それなりに今の今まで生きてきていろいろあったけれど、少なくとも私はお線香のやけどがお墓で転ぶ迷信のように、悪いことを引き起こすとは考えてもいなかった。
私の知人にもそういう勘の強い女史がいるけれど、少なくとも彼女も「別にそんなことないから」と太鼓判。
そういう人もそばにいたりするので助かっているし、そういうものでしかない。
迷信よりも「思い込み」の方が怖い?
そういうわけで締めの言葉になるけれど、結局スピリチュアル的な影響などというのは、日常生活の上でもいくらでもあったりするのかもしれない。
なぜかと言えば、人の心理が深く関わってくるものだから。
けれど、それをお墓で転ぶみたいな迷信への「思い込み」で増幅させる必要はどこにもない。
そうなってしまって結局、悪い方へ現実を持って行ってしまうのが一番怖いのではないだろうか?
その女史も言うのだけれど、いつも明るく、笑顔でいればスピリチュアル的にも良いらしい。
将来、お墓で転ぶことだってあるかもしれないけれど、そうしたらその場で笑い飛ばし、忘れてしまうのが良いにちがいない。
一ノ瀬絵美