お寺が縁結び・出会いの場を提供する「お寺婚活」というのがある。
これが安心と費用のリーズナブルさで、すごく評判上々のようだ。
その理由はお寺が仕切る出会いの場だけに安心感もあるし、何より費用が一回3000円と安い。
このお寺婚活、特定の宗派(臨済宗妙心寺派)に属する若い僧侶でつくられた「吉縁会」によってもうけられ、縁結びや出会いを取り持っているが、運営は好調で、希望者が殺到している。
安心と費用がこういうお寺を出会の場とするのはすごくニッチな感じもするけれど、この吉縁会にならって他の宗派やお寺もお寺婚活に乗り出しそうな感じだ。
元々お寺は「そういう場所」!お寺婚活への安心と費用の安さは歴史への回帰かも
現在そういうわけで、このお寺婚活、吉縁会(http://www.kitien.com/)という若いお坊さんで運営している縁結び・婚活支援組織が好調のようだ。
でもよくよく考えれば、お寺というのは古くは江戸時代、今のこのお寺婚活以上の役割があった。
お寺の檀家の人たちの冠婚葬祭に全て携わっていた。
だから江戸時代には出会いや縁結びには当然のようにお寺が関わっていた。
このためか、1回3000円という費用の安さはともかく、もしかすると私たちは潜在意識的に安心感があるのかも知れない。
というよりお寺の了承がなくては結婚も葬式も出来なかったと言う方が正しいかも知れない。
それだけではない、旅に出たときにどこかのお寺の檀家でなければ全く安心できなかった。費用がどうのではない、生命が脅かされる事実があったようだ。
なにしろ檀家に所属していないと、自動的に“無宿者”、つまりアウトロー扱いになってしまい、いつ役人に捕縛されて投獄されてもおかしくなかったのだ。
こういう当時の制度にはいろいろな見方も出来るけれど、良い意味としてとれば、お寺は江戸時代、地域の人々に対してそれだけ面倒を見ていく責任と使命を負わされていた、ということがあるはずだ。
出会いとか縁結びという、日本人にとって消極的になりがちな行為はお寺が仲介役になってこその物だとも言えるかも知れない。
だから今回のお寺婚活というのは、ある意味歴史への回帰ではないだろうか。
お寺というと今の時代、単に家族が死んで葬式を出す、お盆や彼岸にお参りする、という、いってみれば“暗い行事”ばかりがイメージだけれど、元々そういうものではなかった。
檀家の人たちに仏の教えを説教したりすることもあったし、今で言う“心霊現象”の相談事とか、お祓い祈祷なども普通に行っていたようだ。
お寺婚活の目玉は安心と費用の安さ!そしてその他にもう一つあった!
こうしたお寺婚活、おそらく吉縁会がこういう大成功を継続的におさめていけば、いずれ他の宗派や宗教も同じように出会いの場を設けようとするのかも知れない。
ではなぜこうした吉縁会のようなお寺婚活が人気なのだろうか?
それは上記の通り、ひとつには費用の安さがある。
1回3000円(吉縁会)という、普通の婚活で考えられないリーズナブルさだ。
(というか、今の婚活は高すぎる!)
そしてお寺がある意味ボランティアを買って運営し、縁結びを取り持つ役目を担うのがお坊さんたちだと言うことで何よりも安心感が大きい。
そして実はお寺という特殊な場であるだけに、普通の婚活サイトや婚活ビジネスにはない“サービス”がある、と私は見ている。
サービスというとどうも聞こえが良くないかも知れないけれど、結局は“奉仕”だからサービスになる。
それは登録者や参加者に対して、注意すべきことはする、言うべきことを言う、指摘すべきところをする、という姿勢をお寺の方では貫いてくれるからだ。
普通の婚活ビジネスでは登録者やパーティー参加者は完全に「お客」の扱いとなる。
その意味で普通は参加者に対しては絶対に説教とかはない。
あってもせいぜい規約上で注意事項くらいなものだろうか。
とにかくお客だけに、「お店」側の婚活ビジネスではその機嫌を損ねないよう細心の注意を払うから、その結果言うべきことを言ってこない、直すべきところがあっても指摘されない。
これに対してお寺というの元々がそういう“仏の教え”を伝える場所のはずだった。
今では上記の通り、単に葬式にだけ関わってくるような案配になってしまっているけれど、檀家の人たちを中心に衆生を善導していくのが使命だったはず。
そういう僧侶としての本来的な立場から、参加する人たちにときにはダメ出ししたり、叱りつけたりすることだってあるという。
恐らくは他のお寺も運営スタートするときには、同様な形で運営して行くにちがいない。
けれど、このことは良い意味にとれば、日頃多忙で自己修正しないままにかまけている私たちにとっては、むしろ自分の欠点を指摘してくれる良い機会になる。
すごく安心出来る材料ではないだろうか?
加えてまた、そういうお坊さんの「監視の目」があるために、変にチャラっぽい人とかハントなど別な目的出来ている男性、服装が乱れすぎている人などは場合によっては参加できないかも知れない。
そしてそのことが返って真剣に出会いを求めてくる方たちにとっては、費用とならんでさらに安心できる理由となるかも知れない。
いろいろと問題もないわけではない?
いまこの吉縁会という若い僧侶のグループで発足したお寺婚活が、今後どういう伸びを見せるのかなんとも言いがたいかも知れない。
日本の仏教界もいろいろなしがらみや宗派同士の関係もあるだろうし、またこういういわば若いお坊さんによって運営されているいわば“ボランティア活動”、どのくらいまで現実の婚活中の方たちにインパクトを与え続けて行けるのか、いろいろと未知数な部分も多い。
確かに現行の婚活ビジネスに比べれば、圧倒的に費用が安い、安心。
そういうメリットも大きいことは十分に肯定できる。
だがボランティア活動というのは長くつなげていくためにはしっかりした組織も必要になる。
もちろんお坊さんの中には、別にそういう宗派や組織に属さなくとも、自分がピンでお世話してやりたい、という奇特の固まりのような人もいるにちがいない。
だが逆に、そういう風に費用がかからない分
“あんたたちにこういう有り難い場所を提供してやってるんだから、いちいち文句言うな!”
とか、いわば接待している僧侶の方から一面道理な、そして見方によっては理不尽な怒りの声も上がるかも知れない。
ただ、それでもこの吉縁会という僧侶のグループが、お寺本来の「出会い」、「縁結び」の仕事に目を向けてくれたのは確かに膠着状態だった婚活ビジネスに大きな一石を投じている、そう思えるのだがいかがだろうか。
もう一つは、あくまでも私個人の感想として、今の私と同じようなアラサーや30代女性の未婚者について語ってみたいのだが、
「みんな子供の頃から今に至るまで、叱られることがなくなってしまった」
という気がしないだろうか?
確かに職場などではルーキーから仕事を覚える家庭で、先輩や上司に怒られたり注意されながら過ごすしかない。
だがそれが一通り出来て、仕事で一人前になったらもうそれで終わり。
もっと深いところで何かを諭されたり説教されたり、と言うことはなかなか持つ機会も少なくなってしまっているのではないだろうか。
それは上記のように、お寺が本来持っていた善導の責務がある意味“消えて”終い、葬式にだけ顔を出すようになってしまっている、と言うことにも一つの表れがあるように思う。
お寺婚活という物を通じて、たしかに安心が感じられる。
でもその安心感というのは、やっぱり何か自分にとって気持ち的によいものを授かることが出来る。
お坊さんが仕切る婚活なので、タメになる話も聞けるかも知れないし、あるいは相場だったらご利益だってあるかも知れない。
そういう予感がするからではないだろうか。
だからお寺婚活の良さというのは、単に費用が安上がりでちゃんとした出会いを持てる、という理由だけではないように思う。
最後になるけれど、普通の婚活ビジネスとは一風異なるお寺婚活。
なかなか出会いがなくて打つ手なし、と嘆いている方にとっても一つの選択肢にちがいない。
(一ノ瀬絵美)