厄年は結局迷信。
本気で心配するなんて意味ない、あれは単なる昔からの習慣。
厄年を罵るならこういう風に科学的にもまったく意味がないと主張すればよいだけだ。
厄年の起源だってはっきりしていないし、そもそも今の日本人の平均寿命など、昔よりもずっと長い。
「そんなもの本気で考えても意味ない、深く考えるな」
と主張する気持ちもわからないではない。
だが反面、
「じゃあ厄年にまつわる参拝とかお祓い、全部取っ払って無視したらどうか?」
と迫られたら、あなたはどうするだろうか?
大抵は
「うーん」
と考え込むのではないだろうか?
要するに何かが怖い、心配なのだ。
そこで一番安全で、安心できるような厄年の捉え方を探ってみよう。
「厄年なんて意味ない」は正しい?
初めにはっきり言っておきたいけれど、厄年になったから災難が多いとか、悪いことが重なる、というのはほとんど“思い込み”の領分だ。
だからこれに関してははっきり意味ないこと。
そう言い切るのが正しい。
それでもよく言われる厄年の有意性として、
「そういう年齢にさしかかると健康面や生活、仕事の上で大きな変化や変動がある。だから注意せよという意味で捉えていけばよい」
ということ。
(参考 https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n128583)
まずごく単純に押さえてみよう。
「厄年と言われる年齢の死亡率はほかの年齢の時よりもはっきり高いのか?」
と聞かれたら、どうだろうか?
絶対あり得ない。
少なくとも私自身調べてもそんなデータは皆無だった。
興味ある方はぜひご自身で調べていただきたいし、もしもそれが確かだったらテレビや週刊誌が黙っていないだろう。
つまり何歩か譲った形で、上のような理論付けをしても、おそらくそれほどには意味のないものではないだろうか?
ちなみに、よく言われる厄年というのは女性の場合19、33、37、61歳、男性なら25、42、61歳。
いずれも「本厄」だけを取り上げてみた。
こだわりすぎると依存癖?
だから厄年というのは迷信と割り切ってよいはずだ。
中には女でも男でも、それこそ意味ないようになりふり構わず神社仏閣でお参りしてお札をたんともらって来ないと気が済まないような人もいる。
そういう人の気持ちもわからないではないけれど、どうかすると依存癖の疑いも出るかもしれない。
そして、それこそ信じる信じないの話になるけれど、お札をいくつもの神社仏閣から買い込んで、自分の部屋に貼っている人もいる。
でも、それが逆に神様同士がぶつかったり、霊的な問題が生じてしまい、かえってトラブルを起こしかねない、ということを聞いたことがある。
厄除け、厄払いしようとしてやり過ぎると、逆に災難に遭うことにもなるからやっぱり危険なのだ。
それでも気をつけるべきことが3つある!
ただ、今の世の中、そして自分たちの心のあり方から考えてみると、別な捉え方もある。
そしてそれこそが私が今回「一番安心できる」おすすめな考え方となる。
そういう特定の年齢をあげつらって医学的、科学的なデータ上からまったく意味ない、とバッサリ厄年を切り捨てられないのもこういうところにあるはずだ。
3つ、押さえて損ない考え方をあげてみたい。
一つには健康。
厄年に該当する年齢というのはよく健康状態や体調の“曲がり角”のようにいわれている。
だがそういう特定の年齢ではなく、むしろそういう年齢も含んだある年齢の期間中は、確かに気をつけるべき生活・健康問題が出るということもいえるはずだ。
特に女性。
男性よりも一つ厄年が多くあり、しかも30代に2度も集中している。
これは昔から女性の30代というのがとかくそういう病気や生活上で不安定になりやすいことを暗示しているともいえる。
二つ目には自分の気持ちを安心させること。
「迷信かどうかはわからない、けれども厄払いのお参りにも行ったので、これで気持ちもせいせいした」
という方はとても多いはずだ。
そういうメンタル面でも厄年というのは「(厄ではなく)役に立っている」はずなのだ。
人の思い込みというのは価額でも割りきれない。
思いは思いで解決できる場合もあったりする。
三つ目には、変な話だが厄払いしたことで、周囲の人間関係にアピールできる。
そういう伝統行事を重んじる女性、などと親戚や友人知人に知らせることもできるし、ひょんなことから厄払いということのつながりが縁で、よい人との巡り会い、ということだってあり得ないわけではない。
さらには今勤めている仕事先などでも周囲への心証にも影響されてくるかもしれない。
あくまでも個人的な意見だけれど、会社とか企業などは結構縁起を大切にするはずなのだ。
株価や景気、外貨の変動など、それこそ“神のみぞ知る”世界。
私の知人をたぐっても、そういう風に企業のトップが率先して信仰している神社仏閣があったり参拝しているケースもある。
それ以前に、何よりも大抵の職場には、縁起を担ぐようにして神社のお札が貼ってあったり、神棚があるようなところだって珍しくない。
だからそういうところで仕事をしているなら厄年や厄払いを気にかけて絶対損ということはないのだ。
人間関係を結構渡り歩いてくるとおわかりになると思うけれど、どこでどんな風に棚ぼたがあるかわからない。
それが世の中でもあるようだ。
「役に立つ」時には大人の判断を!
ちなみに、私は厄払いに自分から率先していったことはない。
初詣すら皆無だ。
男の厄年という25の時に、親に尻をたたかれるようにしてやむなく行った(行かされた?)に過ぎない。
私自身、こういことを全然信じていないし、本当に全く意味ないとも考えていたのだが、上のような知恵をある人から聞いたことで、
「厄は『役』に立つ」
ということが確かにあるようだ。
そういう捉え方からすれば、全部を全部切り捨ててしまうのは、場合によってはそういうものを信じている人たち、そしてそれに関連している社寺仏閣とも断絶しようとしてしまうことになるかもしれない。
やり過ぎは禁物だけれど、
厄年は意味ないところで意味を持つ
私に教えてくれた人の川柳だけれど、こういう捉え方が良いランディングポイントだとおすすめしたい。
吉野博耶